1章 マネジメントの常識が変わった
パラダイムは不変ではない(113)
1930年代にマネジメントの研究が始まって以来、学者、評論家、実務家の間で真実とされてきた二組の前提がある。
一組は組織運営上の前提である。
1 マネジメントとは企業だけのためのものである。
2 組織の正しい構造は一つである。
3 人をマネジメントする正しい方法は一つである。
もう一組は事業運営上の前提である。
1 技術と市場とニーズは不可分である。
2 マネジメントの範囲は法的に規定される。
3 マネジメントの対象は国内に限られる。
4 マネジメントの領域は組織の内部にある。
しかしマネジメントのようなに社会科学の扱う人間社会に不変の法則はない。変化してやまない。昨日有効だった前提が突然無効となり、さらには間違いとなる。
マネジメントは企業だけのためのものか(114)
マネジメントが企業のマネジメントを指すとの誤解は、大恐慌下において企業不信と企業人批判が高まったことによる。当時の公的機関は企業と一線を画すために、パブリック・アドミニストレーション(行政管理)と称した。病院も、ホスピタル・アドミニストレーション(病院管理)と称した。
第二次世界大戦後、事態が逆転し、ビジネス・マネジメントは敬意を払うべきものになった。
しかし、マネジメントが企業のものであるとの60年に及ぶ誤解は根強い。われわれは、マネジメントが企業のマネジメントだけではないことを確認しなければならない。
マネジメントについて当然とすべき第一の前提は、それがあらゆる種類の組織にとっての体系であり、機関であるということである。
組織の正しい構造は一つか(116)
フェヨールの機能別組織が唯一の正しい組織ではないことを明らかにしたものが第一次大戦だった。次いでアルフレッド・スローンが分権型組織を生み出した。今日ではあらゆる組織に適用すべき構造として、チーム型組織が喧伝されている。
組織とは、共に働く人たちの生産性を高めるための道具である。それぞれの組織構造は、ある状況の下で、ある時点で、ある仕事に適合するというだけである。
組織には守るべきいくつかの原則がある。
第一に、誰もが自分の働く組織の構造を知り、理解できなければならない。
第二に、組織は最終的な決定を下す者を必要とする。危機にあってはその者が指揮をとる。
第三に、権限には責任が伴わなければならない。
第四に、上司は一人でなければならない。
第五に、階層の数を少なくしなければならない。
人をマネジメントする正しい方法は一つか(120)
組織のために働く者はすべて、その組織に生計とキャリアを依存するフルタイムの従業員であり、その組織において誰かの部下であり、しかもほとんどは取り立てて能力はなく言われたことをするだけの存在であるとする。
これらの前提は確かに、第1次大戦のころには現実に即しており、意味もあった。しかし今日ではいずれも無効である。
今日ますます多くなっているのが知識労働者である。彼らは誰かの部下ではなく、同僚である。
また、上司の多くは、通常考えられているほどには、部下の仕事を経験していない。部下の専門分野が何をもたらすのかについて、上司は彼らに教わらなければならない。
上司と彼ら知識労働者の関係は、オーケストラの指揮者と演奏者の関係に似ている。オーケストラの指揮者はチューバを演奏できないが、オーケストラの団員が最高の指揮者の仕事を台無しにできることが可能なように、最高の上司の仕事を台無しにすることができる。
知識労働者の方は、仕事の方向性、とりわけ、成果の基準とすべきもの、価値や成果については上司の判断を仰がなければならない。
知識労働者の動機づけは、ボランティアのそれと同じように、報酬ではなく仕事そのものから満足を得なければならない。何にもまして挑戦の機会が与えられなければならない。
人をマネジメントすることは、働く人を仕事上の対等なパートナーとしてマネジメントすることであり、それは仕事をマーケティングすることを意味する。
問題は、人の働き方についてのマネジメントの仕方ではなく、成果についてのマネジメントの仕方である。ちょうどオーケストラやフットボールの中心が音楽や得点であるように、人のマネジメントの中心となるべきものは成果である。
技術と市場とニーズは不可分か(124)
繊維産業は、産業として独自の技術を持つことによって、手工業から脱して近代産業となった。石炭産業もそうだった。技術と市場とニーズは不可分であるとの前提が、近代産業と近代技術を生み出した。
ところが、この前提が今日では通用しなくなった。自らの産業や企業に最も大きな影響をもたらす技術は、自らの世界の外からのものであると考えなければならない。
医薬品メーカーにとっての遺伝子工学や医療用エレクトロニクスのように、聞いたことのない技術が、突然、産業と技術にイノベーションを起こす。新しいことを学び、手に入れ、使い、さらにはものの考え方まで変えることを必然とする。
また、いかなる財・サービスといえども、使い道は一つではなく、逆にいかなる使い道も、一つの財・サービスに縛られるものではないことを前提としなければならない。
このことが意味するのは、第一に、顧客ではない人たち(ノンカスタマー)が、顧客以上に重要なったことである。変化は常にノンカスタマーから始まる。
第二に、自らの製品やサービスを中心においてはならない。中心とすべきは、顧客にとっての価値であり、支出配分における顧客の意思決定である。
マネジメントの範囲は法的に規定されるか(128)
マネジメントの範囲は法的に規定されるとする前提は、当初マネジメントの概念が、指揮命令を基盤としていたためだった。企業のCEOにせよ、教会の司教にせよ、自らの組織の法的な境界を越えて指揮命令を行う権限はない。
デュラントは、指揮命令権をマネジメントの基盤としていたため、系列に組み入れるべき企業を買収していった。この戦略がやがてGMの弱みとなった。今日まで続くことになった高コスト構造をもたらし、GM凋落の原因となった。
シアーズ・ローバックは、この問題をはじめから認識しており、供給業者をグループ化し、企画開発、設計、コスト管理に共同で当たったが、買収・合併せずに、いわば提携の対象として少数株主となるにとどめた。
マークス・アンド・スペンサーは、少数株式の保有さえなしに、契約による供給業者の系列化を行った。1960年代にこれらの先駆者に続いたのが、日本企業だった。
ところが今日では、この「系列」でさえ十分ではなくなっている。この関係は調達側が圧倒的に大きな力を持っており、その関係は対等ではなく、供給業者側の従属によって成り立っている。
今日では、経済連鎖の概念のもと、対等な力と独立性を持つ者との間に、真のパートナーシップが生まれつつある。系列や指揮命令の通用しない関係が、重要な意味を持つに至っている。
今日必要とされているものは、マネジメントの範囲の見直しである。マネジメントは経済的プロセスの全体と対象とし、経済連鎖全体における成果と仕事ぶりに焦点をあわせなければならない。
マネジメントの対象は国内に限られるか(131)
今日にいたるもマネジメントの理論では、企業とそのマネジメントが対象とすべき範囲は、国境によって仕切られた国内経済であると前提している。
かつて多国籍企業にとって、経済の現実と政治の現実は一致していた。国が経済単位だった。しかし今日のグローバル企業、および変身中の多国籍企業にとって、国はコスト・センターに過ぎない。
企業にとっても企業以外の組織にとっても、国は、戦略上も生産活動上も厄介の種に過ぎない。
マネジメントの対象と国境は一致しなくなった。国境はマネジメントにとって、重要な意味を持ち続ける。しかし前提とすべきは、国境は制約条件に過ぎないということである。
マネジメントの世界は組織の内部にあるのか(133)
マネジメントと起業家精神はコインの裏表である。マネジメントを知らぬ起業家が成功し続けることはあり得ない。イノベーションを知らぬ経営陣が永続することもあり得ない。企業にせよ、他のいかなる組織にせよ、変化を当然とし、自ら変化を生み出さなければならない。
マネジメントの領域が組織の内部にあるとされてきたために、組織の内部における努力に焦点を当てるようになってしまった。しかし組織の内部で発生するものはコストだけである。成果は、組織の外部にしかありえない。
マネジメントとは、組織の外部において成果をあげるためのものであり、したがって、まずその成果を明らかにし、次にそれを実現するために、手にする資源を組織しなければならない。