2章 いかにして社会的責任を果たすか
組織の存在理由(91)
現代の組織は、それぞれの分野において、社会に貢献するために存在する。だが組織が社会に与える影響は、それぞれの存在理由とする社会への貢献にとどまりえない。
特殊鋼工場の目的は、顧客のために高性能の金属を作ることである。しかしその目的を達成するには、騒音を出し、熱を出し、煙を出す。これら社会に与える影響は、組織の目的に付随して起こる。多くの場合、避けられない副産物である。
これに対し社会の問題は、社会そのものの機能不全から起こる。組織は社会そのものの問題から影響を受けざるをえない。社会の問題は組織にとって関心事たらざるをえない。
組織は不健全な社会では機能できない。マネジメントが社会の病気を作ったわけではないが、社会が健康であることは、組織のマネジメント自身にとって不可欠である。
社会に与える影響に対する責任(92)
故意であろうとなかろうと、自らが社会に与える影響については、いかなる疑いの余地もなく、その組織のマネジメントに責任がある。
問題に取り組むことは評判を悪くするとか、同業に恨まれるなどは、言い訳にはならない。
遅かれ早かれ社会は、そのような社会に対する影響を、社会に対する攻撃とみなす。そのような影響を取り除いたり、問題を解決するために責任ある行動をとらなかった組織に対し、高い代償を払わせる。
フォードは1940年代から自動車の安全性に力を入れ、シートベルト付きの車を売り出した。売り上げは激減し、シートベルトから手を引いた。
しかしその15年後、自動車メーカーは、安全性への関心の欠如と、死の商人たることを激しく攻撃されるにいたった。
いかにして対処するか(93)
社会的影響に対処するには、その全貌を明らかにし、影響を与える原因になっている活動を中止することによって、影響をなくせるのであれば、それが最善の解決である。
しかしほとんどの場合、活動を中止できない。したがって、影響の原因となっている活動を継続しつつ、影響を最小限にとどめるための組織的な行動が必要となる。ここにおいて理想的なアプローチは、影響を取り除くことをそのまま事業にすることである。
ダウ・ケミカルは大気汚染や水質汚染が問題になる前に、工場からの汚染をゼロにする方針を決定し、しかも除去した物質によって新製品を開発し、それらの製品の用途と市場を創造した。
デュポンも自社の工業製品に有害な副作用があることを知り、毒性除去プロセスを開発し、他社が無視していた影響の除去を始めた。しかも、工業製品の毒性除去を事業に発展させた。
もちろん、影響除去の事業化は多くの場合不可能であり、影響の除去はコスト増を意味する。したがって同業他社が同じルールを受け入れない限り、競争は不利となる。ほとんどの場合、全社に同じルールを受け入れさせるには、規制の力が必要である。何らかの公的措置が必要となる。
コストと便益を最もバランスよくさせる最適なトレードオフをもたらす規制案を作り、公共の場における討議を促進し、最善の規制を実現するよう働きかけることが、マネジメントの責任である。
社会の問題を機会に変える(96)
社会の問題を事業上の機会に転換することによって社会の要請に応え、同時に自らの利益とすることこそ、企業の機能であり、ある程度は他の公的機関の機能でもある。
変化をイノベーションに転換すること、すなわち変化を新事業に転換することが、企業の使命である。企業の歴史を通じて、社会的なイノベーションは技術のイノベーションよりも大きな役割を果たしてきた。
したがって、社会の問題を事業上の機会に転換するための最大の機会は、主として社会的なイノベーションである。
第1次大戦前の時代、労働者の移動が激しく1万人を確保するために6万人を雇っていたフォードは、1913年すべての労働者に対し、当時の平均の3倍にあたる日当5ドルを保証すると発表した。
その結果、転職はほとんどなくなり、原材料の値上がりにもかかわらず、T型車をより安く生産し、1台当たりの利益さえ増大させた。
社会的責任の限界(98)
組織にとって最大の社会的責任は、その機能を遂行することである。個々の組織がその具体的な機能を遂行する能力を損なうことは、社会にとっての損失である。
破産する企業は、望ましい雇用主ではない。地域社会にとってもよき隣人ではない。
マネジメントの役割は、その組織を機能させ、その目的、使命とする貢献を果たさせることである。
マネジメントたる者は、リスクを負い将来の活動に着手するうえで必要な利益の最低限度を知っておかなければならない。
彼らが利潤動機なるものについて考え論じている限り、社会的責任について合理的な意思決定を下すことも、それを説明することもできない。
経済的な能力の限界を無視して、負担しきれない社会的責任を引き受けたとき、その企業は必ず苦境に立たされる。能力のない仕事を引き受けることも無責任である。
企業は自らが社会に及ぼす影響について責任を果たすうえで必要な能力は、すべて身につけておかなければならない。しかし、それ以外の社会的責任の分野においては、行動の権利と義務は、その固有の能力によって限界が定められる。
権限の限界を知る(101)
社会的責任に関して最も重要な限界は、権限の限界である。権限を持つ者は責任を負う。責任を負うものは権限を要求する。責任と権限はコインの両面である。
企業やその他の組織が、社会そのものの問題や病について社会的責任を要求された場合、マネジメントは、責任に伴う権限が正当なものかどうかを徹底的に考えなければならない。
もし権限を持たず、また持つべきでないなれば、責任を負うことの是非に疑いを持たなければならない。
組織が果たすべき最大の貢献(103)
社会の問題に対して責任を負うことによって組織本来の機能を損ない傷つける場合、また要求が自らの能力を超えるものである場合、責任が不当な権限を意味する場合、マネジメントは抵抗しなければならない。
しかし、企業をはじめあらゆる組織が、社会にとって深刻な病について関心を払わなければならない。少なくとも問題がどこにあり、どう取り組むべきかを検討しなければならない。関心を払わないことは許されない。
なぜならば、現代の組織社会においては、彼らのほかに諸々の社会の問題について関心を払うべきものはいないからである。現代社会において、組織のマネジメントこそ、指導的地位にあるからである。
しかし同時にわれわれは、先進社会には、自立したマネジメントを持ち業績を上げる組織が必要であることを知っている。それらの組織が果たすべき最大の貢献、すなわち最大の社会的責任とは、それぞれの機能を遂行することである。
プロフェッショナルの倫理(104)
これまで企業倫理や企業人の倫理については、数えきれないほど説かれ、書かれてきた。そのうちの一つが、マネジメントたる者は、地域社会において積極的かつ建設的な役割を果たす倫理的な責任があるとの説である。
しかしこの種の活動は、強制されるべきものではない。この種の活動に参加することが、企業内において賞されることがあってはならない。そのために報酬を受けたり、昇進することがあってはならない。この種の活動を命じたり、圧力をかけることは、組織の力の乱用である。
マネジメントに特有の倫理の問題は、彼らを集団的に見たとき、組織社会における主導的な地位にあるグループを構成していることから生じてくる。
主導的な地位にあるグループの一員であるということは、本質的にプロフェッショナルであるということである。ある身分、地位、卓越性、権限、義務が与えられているということである。
したがって、マネジメントにある者はすべて、主導的な地位にあるグループの一員として、プロフェッショナルの倫理、すなわち責任の倫理を要求されている。
「知りながら害をなすな」(106)
プロフェッショナルの責任は、すでに2500年前、ギリシャの名医ヒポクラテスの誓いの中にはっきり表現されている ー 「知りながら害をなすな」
プロたる者は、医者であろうと、弁護士であろうと、マネジメントであろうと、依頼人に対し、必ず良いことをすると約束することはできない。彼にできることは最善を尽くすことだけである。
しかし、知りながら害をなすことはしないとの約束はしなければならない。依頼人の方としても、プロたる者が知りながら害をなすことはないと信じられなければならない。この信頼がなければ、何も信じられない。
例えば、自らの企業が社会に与えた影響について、業界で不評を買うとの理由から、適切な解決策を検討せず、実行もしないマネジメントは、知りながら害をなしていることになる。
従業員に与える年金退職金、永年勤続金、ボーナス、ストックオプションは、すべて従業員を雇用主のもとに縛る働きをしている。会社を辞めることには罰が伴う。これも「知りながら害をなすな」の原則を守っていない例である。